二蓋笠会の沿革・参:大和柳生の剣

定芳老師は入山以来、道場再建に東奔西走され、ことに資金集めに幾度となく行き詰まりながらも不撓不屈の努力を続け、大東亜戦争をはさみながらも、約四十年の歳月をかけて念願の正木坂道場再建の夢を果たされました。

しかしながら、地元柳生で新陰流の技を伝承出来る人物はなかなか現れず、さすがの老師もこのお流儀だけはどうする事も出来ませんでした。

橋本定芳老師の死後、一念発起し、その老師の意志を受継いで柳生の地に新陰流を復活させるべく、名古屋の神戸先生の下に通われたのが、畑峯三郎師範です。

春風館道場にて
【春風館道場にて】

前述の当会会報『柳生新陰』の中からその当時の様子を畑峯三郎師範の文章より抜き出してみると、

“地元にも柳生の表看板たる古武道柳生新陰流の再起の必要性を認識された先代橋本定芳老師が此の再現にあらゆる努力をされたが、残念ながら其の技の実現は見られなかった。

老師が流の再現にかけられた最後の言葉は「春の坂道」(NHK大河ドラマ)が放映されている年(昭和46年)の秋のある日と思うが、「柳生の臍の道場の見通しは立ち、理想も大体は出来たが、真となる流儀はついに見る事は出来なんだ。畑峯君、わしゃもう柳生流は諦めたよ。」と、つぶやく如くに話された。

其の言葉の力無さ、あのお顔、今にも消える如く感じた肩先が、今尚私の脳裏には消す事は出来ない。(翌昭和47年1月に定芳老師は81歳で永眠されました。)

其の後は思いも新たにて、老師と共に江戸柳生流はあくまでも大和柳生のものであると共鳴され、貴重なる武技と生涯を、名古屋の片隅で大和柳生を見守って下さる神戸金七先生の下に、仕事の合間々々に、と言ってもお盆の休み、薮入り休み、春秋一回程度の合間を利用してご指導を受けたものである。

名古屋到着は午前十一時過ぎ、午後一時過ぎから先生に直接の指導で五時頃まで、六時過ぎから加藤社長(春風館館長)はじめお弟子衆の皆様と九時頃まで、社長夫人の夕食を戴いて十二時頃までは老先生の柳生について、又は古文書についての講義を拝聴し、朝は五時に起き、そっと一人で道場で昨日昨夜の復習を八時までやり、朝食を戴いて帰路につく日課が三、四年は続けた事を記憶している。

その都度、加藤社長は家族同様に接待下された事を思えば、本当に未熟ながらも本会が今日在るのも神戸先生はじめ加藤社長御一家の御指導、御支援の賜である事を私は忘れる事は出来ない。”

と述べられています。

二蓋笠会の沿革・肆:畑峯三郎師範>>