二蓋笠会の沿革・弐:神戸金七先生

橋本老師に賛同し、同じように柳生の地に情熱をかけられた方が名古屋にいらっしゃいました。
それが尾張柳生第十三代柳生厳周師の高弟神戸金七先生です。

神戸金七先生は、江戸時代最後の尾張藩剣術師範であった柳生厳周師に八歳から師事し、新陰流兵法・新陰流槍術を学び、古流・江戸遣い・尾張遣い等 全ての新陰の技を伝えられ、若くして高弟となられましたが、その後も練磨怠る事無く、貫流をはじめとする槍術数流、小野派一刀流剣術、天神真揚流柔術や弓術に至る迄諸流を学び、剣道にも精進されました。

戦時中の名古屋空襲の際、白兵戦に備えて甲冑を纏い、真槍を持って道場脇に立たれていたというエピソードは正に武人の姿そのものといえます。

神戸先生は、江戸柳生の技を地元柳生に残すべく、度々柳生を訪れては新陰流指導に当たられました。

橋本定芳師と神戸金七先生
【橋本定芳師(左)と神戸金七先生(右)】

昭和58年発刊の当会会報『柳生新陰』の中の「発刊によせて」から、当時の様子を芳徳寺現住職橋本紹尚師の文章より抜き出してみると、

「神戸金七先生は、今はすでに亡くなられたが、尾州柳生家の柳生厳周師より印可を継がれ、昭和三十年から昭和四十年頃に芳徳寺をおとずれ、先代の定芳和尚と親しく話等を交され、ぜひ地元柳生にその流れを定着させたいと希望され、和尚もぜひ柳生に住んでお願いしたいと住居もさがしていたが(諸事情により定住は出来ませんでした)、それでも二ヶ月に一回くらい御子息二人を連れられて三日ほど泊まられてご指導を頂いた。」

とあります。

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