二蓋笠会の沿革・壱:橋本定芳和尚
「あるべき所にあるべきものがないのじゃ。
あるべき所にあるべきものをつくらにゃならんのじゃ」
柳生の芳徳禅寺の先代住職 橋本定芳師は会う人ごとに熱心にこう説かれていたそうです。
芳徳禅寺は、柳生宗矩が父石舟斎の供養の為、沢庵和尚を開基として創建した臨済宗大徳寺派の禅寺で、柳生家の菩提寺として知られていましたが、明治の御一新による武士階級の崩壊、廃藩により荒廃し、明治の末には廃寺の危機にさらされていました。
そこへ柳生に心底惚れこんだ橋本定芳師が、柳生を終のすみかと決め大正15年6月に赴任し、お寺の復興に尽力されました。
定芳和尚曰く、
「柳生に道場がないのは、あるべきところに毛がないのと同じで、まことに不自然至極。柳生の剣は人を損わぬ。どうすれば力を用いずして世の中を治められるか。それを極めつくして無刀の位に到達したからこそ、天下の剣となった。日本武道の奥の院じゃ。だからここに道場を置き、誰にでも何にでも使って貰って、柳生の精神を活かして欲しい。今やっておかぬと、あと三百年は出来ぬからな。」
元々有名な画家であった橋本定芳師は、仏画を多く手掛けるようになってから「お経がわからねば本当の仏画は描けぬ」と覚悟し、仏縁を得て仏門に入られた経歴のお方です。
「柳生は日本の臍(へそ)である」と喝破され、地元柳生はもとより、来るべき新しい時代の日本発展に必要な柳生道場の再建と、お流儀である柳生新陰流の復活に生涯をかけられました。