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平和の剣としての柳生新陰流当流起源は、戦国時代に新当流や念流などの諸流を極めた上泉伊勢守信綱が、特に愛洲移香斎の陰流から「奇妙」を抽出して、「転(まろばし)」という理論に工夫し、陰流を基にした新しい陰流(新陰流)を興した事に始まります。
元来伊勢守の兵法は、自分の身を守ると同時に、敵の生命をも尊重し、その生を断つことを嫌い、ただその戦闘力を失わしむるを主眼としている為、伊勢守工夫の「転」の一道を以て、敵が如何なる処より打ちかかるとも、まずその拳を切ることを練磨する方法を勢法(形)に示し、後世に伝えました。現在においてもこの理念は形稽古の中に活かされています。 また、往時の一般的な剣術稽古は木刀を使用する事を主体としており、稽古中に事故が絶えないのが常でしたが、伊勢守が考案したといわれる『ひきはだしない』(三尺三寸の真直ぐな破竹に馬や牛の革で作った袋を被せた袋竹刀で、現代剣道の竹刀の原形)を使用する事により存分に打合って稽古する事が可能になりました。 ここにも伊勢守の生命の尊重という理念を見て取る事が出来ます。
石舟斎の兵法は温良恭謙譲を常とし、日夜稽古鍛錬工夫を怠らず、己を律する求道的な剣です。それが戦国の世に我が身を修める「修身の剣」として、剣を殺人刀(せつにんとう)から活人剣(かつにんけん)へ昇華させ、柳生新陰流を「切らず・(命を)取らず・勝たず・負けざる剣」として具現化させました。 石舟斎以後、柳生家は江戸では但馬守宗矩・十兵衛三厳、尾張では兵庫介利厳・連也斎厳包などの剣聖を排出し、時代により構え・身位・攻め様などに変化はあっても新陰流の真理は変わらず、その技法と心法は現代においても脈々と受け継がれています。 われわれ、二蓋笠会は先人達の貴重な遺産である柳生新陰流を発祥の地であるここ大和の地・「柳生」にて伝統を保持継承し、柳生流に活きる精神と技を後世に伝えるべく活動しております。
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