二蓋笠会の沿革・肆:畑峯三郎師範

畑峯三郎師範は、旧柳生村邑地に生まれられ、剣道を教えながら、柳生新陰流の研究を生涯続けられました。明治の頃の地元の柳生流の遣い手を直接知る古老を訪ね、旧藩士の家々の古文書を尋ねて、特に地元に伝わった柳生十兵衛系の新陰流の技を研究されました。

畑峯三郎師範
【地元の柳生流について研究を重ねられました】

昭和47年発行の『従是西山城国(これよりにしやましろのくに)』という著書は、旧柳生藩領である南山城村の村史ともいうべき書です。この書の中で畑峯師範は『柳生新陰流雑感』という文章を添えられており、柳生流研究の様子を次のように語られています。

“柳生藩最後の名剣士と言われた中村二角先生の物語りは、現に先生に接した幾人かの老人がある。
現柳生村社八坂神社脇の村集会所で、近郷の若者達を指導されたらしく、明治16年の日付の入門起請文が芳徳寺に残されて居るが、その中に南都、播磨、伊賀、近くは帯解、和束、高尾等の地名が書かれた百通に近い血判を印した誓約書が在る。

中村二角先生の起請文
【中村二角先生の起請文】

然るに柳生流は、名僧沢庵禅師の剣禅一理の境地に依ってのみ理解のできる兵法修行である。村の若者達には理解し切れなかったか、誰一人としてこの流儀を土地には残し得なかった。現在では二角先生の伝書兵法目録と旧領地現南山城村の各在地に残る藩士の家々の覚書古文書を尋ね、正統江戸柳生の技法を探索して居る現状である。”

ちなみにこの書『従是西山城国』の主たる著者である宮本昭先生は、生前京都府医師会の役員等を歴任され、南山城村で診療所を開業されながら、郷土史を研究されておられた方です。

宮本先生の叔父に当たる方は旧柳生藩士で、地元の柳生流最後の遣い手の一人杉岡政房師で、当会でも永らく宮本先生が道場長を務めておられました。(現在の道場長は芳徳寺住職の橋本紹尚和尚)

畑峯三郎師範は、「新陰流を学ぶのであれば、神戸先生に学ぶように」という橋本定芳老師の生前の言葉に従って名古屋まで通い、江戸柳生の技を現代に伝えられた神戸金七先生に目録を授けられ、柳生の地に再び新陰流を復活させたのです。

二蓋笠会の沿革・伍:二蓋笠会の歩み>>